道徳性の境界線の探求 The Quest for The Boundaries of Morality (The Routledge Handbook of Moral Epistemology CH.1)

Stephen Stich

スティーヴン・スティッチ - Wikipedia

 

・道徳の分析は、1950年代のヘアの影響で道徳的発話からの分析が多かった。しかし、マッキンタイアは別の方法を取った。

アラスデア・マッキンタイア - Wikipedia

・マッキンタイアからは以下の提起がなされる。

  1. 哲学者は何をしたいのか?
  2. 哲学者はなぜそれをしたいのか?なぜそれが重要だと考えているのか?
  3. 道徳的判断や原則とそれ以外の違いを示す特徴を、哲学者は如何に見つけようとしているのか?
  4. どんな特徴が提案されてきたのか?どれが同意を得たのか?
  5. この研究への貢献が次第に減ったのはなぜか?
  6. 哲学者が追い求めたこのプロジェクトに関連したより最近の研究はどのようなものか?

・➀の答え→哲学者がやりたいことは、道徳/不道徳(immoral)ではなく、道徳的判断・原理/非道徳的(nonmoral)判断・原理の違いを明らかにすることである。

 

・②の答え→a)その答えが、例えば、ナヴァボ族は道徳規則をもっているかや、列で大人しく待つのは道徳規則か、などの説明になるから。b)その答えが道徳の本質を特定してくれるから。

Joyceは、「道徳的判断を形成する機能」としての「道徳感覚」の進化を説明した。

Richard Joyce (philosopher) - Wikipedia

・Haidtは、道徳心理学研究は、政治的リベラルな人間に支配されている。それにより、道徳領域が不適切に狭くなっている、と言った。正義や公正の他にも様々にあるでしょ、と。

ジョナサン・ハイト - Wikipedia

・とにかく重要なのは、それらの規則が道徳規則かどうかである。

 

・③の答え→記述的概念分析によって。これの目的は2つ。a)日常の使用を下敷きに道徳的判断の概念を捉えること。b)哲学的理論の構造に合わせた道徳概念の改定。

・Frankena曰く、後者は規範的なものである。

William Frankena - Wikipedia

 

・④の答え→道徳規則、道徳的判断の定義は論争的である。

・ヘアの主張:道徳規則は普遍化可能(universalizable)であるはずである。道徳規則は述語である。述語は限定的である一方で、規則は述語が当てはまるものすべてに当てはまる。つまり、述語は道徳規則の必要条件である。

・ヘアの別の主張:道徳的判断は規範的(presciptive)である。したがって、行為指導性は、命令的なものを含意した事実から導かれる。

・フランケナの主張:行為指導性が人々にとって道徳原理であるなら、その原理を最も重要なものとみなすはずである。

・Gewirthの主張:フランケナと似たアイデア。道徳的判断は定言命法的(categorical)である。

Alan Gewirth - Wikipedia

・Cooperの主張:道徳規則は違反が社会的制裁を招くような行為指導的規則である。

・フランケナの別の主張:2人が同じ事実に関する信念をもつとき、道徳的判断も同じになる。

・以上の主張はどれも形式的である。しかも必要条件でしかない。当然反論が出てくる。

ウィトゲンシュタイン:道徳は家族的類似の言葉である。厳密な必要条件の存在を否定。

家族的類似 - Wikipedia

・マッキンタイア:多くの道徳的判断は普遍化可能でも述語的でもないよ

・Sprigge:普遍化可能じゃないよ

 

・より論争的な問題:より実質的な社会的要求が道徳性の定義に含まれるべきか否か

→フランケナ:Yes。他者との関係性を考慮し、行為の影響を考慮すべき。

→この条件は、義務論や功利主義に広く受け入れられた。しかし、単純な利己主義のようなものを非道徳として除外してしまう一方で、「ナチスの倫理」のようなものを含んでしまう。

ニーチェの行為指導規則では逆に、単純なエゴイズムなどを含める一方で、ナチスの倫理は含まない。

 

・⑤の答え→たいていの選択肢が出そろい、新たなアイデアが見込めないから消えていった。

 

・⑥の答え→以下で述べられること。

・「記述的解明」をしたい人たちは、我われが実際に使用している概念を把握する説明を求めている。古典的概念理論で分析することは誤りであることを経験的・哲学的研究は明らかにした。

道徳心理学や実験哲学のおかげで、直観が集団ごとに変わることがわかった。したがって、哲学的に重要な概念も集団ごとに変わってしまう。

・集団ごとの「我われの道徳」というときに、もはや「我々」が誰なのかが分からない。仮に分かったとしても、我われの道徳がその他の道徳よりも優れていることは説明できない。

 

・Turielによって、道徳的判断の説明に、普遍化可能性と定言命法が取り入れられた。

Elliot Turiel - Wikipedia

・「形式的」として批判されたものであるが、危害・正義・権利とリンクすることで、実質的な特徴として見れるようになった。

・テュリエルは、違反に関する被験者の判断が、道徳的判断かどうかを決定しようとした。その実験は、道徳/慣習的タスク(moral/conventional task)と言われる。

・慣習的違反よりも道徳的違反の方が深刻であると考えるかもしれないが、テュリエルはこれを否定した。例えば、消しゴムを盗むことよりも男の子がドレスを着ることの方が悪いと考える人がいた。

・道徳/慣習的タスクにおいて、道徳的判断の特徴であるとテュリエルが考えたものは以下の3つである。(スティッチによるもの)

  • (U)普遍化可能性universalizability
  • (I)権威独立性authority independence
  • (H)危害・正義・権利に訴える正当化justification by appeal to harm,justice or rights

・逆に、¬U¬I¬Hの返答パターンは慣習的な規範的判断の特徴である。

・大人がUIHの返答をし、¬U¬I¬Hの返答をする描写を子どもに見せてみたところ、コールバーグが違反のみによってしか道徳性を考えられないとした年齢で、子どもは道徳的判断ができていた。つまり、小さい子どもでも、道徳的・慣習的規則と違反の区別ができているということだ。

ローレンス・コールバーグ - Wikipedia

・テュリエルへの批判:テュリエルの研究は、道徳規則や道徳的判断の日常の使用に関して追加の証拠を与えていない。また、いかに概念を改定するべきかについての規範的主張もない。

・道徳的判断を日常の意味で用いると、それがいかに同定されるかを明記できない。一方で、それを専門用語として使えば、実際の使用とは離れてしまう。

・これらの問題を避けてテュリエルのプロジェクトを構成する方法がある。パトナム曰く、「意味は頭の中にはない」。つまり、重要な特徴を決定することや定義を構成するのは経験科学の仕事である。

・科学者は、当該種類の直観的に典型的な例に注目し、それらの間で共有されている属性を見つけ出す。もし典型例の中で見つかったり、非典型例に共通して存在しない属性があれば、その属性はその種の重要な特徴であると仮定できる。道徳的判断という自然種の用語にしても心理学の仕事である。

・テュリエルによれば、UIH判断はノモロジー的にリンク、つまり、典型的に一緒に起こると期待されている。

Nomology - Wikipedia

・しかし、テュリエルのこれらの見解を否定する実験が数々ある。Zissan、Nucci and Turiel、Haidt、Nichois。どれも、UIHがノモロジー的にリンクしていないと示した。つまり、テュリエルのUIH判断は、重要な特徴ではないということである。

・では、テュリエルの説明以外ではどうか。Kumarはテュリエルの(H)を捨てる。

・問題はクマールの提案する特徴が実際にノモロジークラスターを形成するかである。

・過去30年間で、普通の人々が道徳的客観主義か道徳的相対主義かが盛んに研究された。

・これを踏まえて、クマールは道徳概念を定義するノモロジークラスターの特徴を以下に定義した。

  • 深刻さ
  • 一般性
  • 権威独立性
  • 客観性

・しかし、クマールの仮説は非説得的である。➀大衆の道徳的客観主義はクマールが考えているよりもはるかに反論されている、②客観性が他の特徴とともにノモロジークラスターである証拠がない。クマールの実験の質問では客観主義かどうかしか分からない、③クマールはテュリエルの「深刻さ」を誤解している。テュリエルは道徳的規則と慣習的規則をわけるのに深刻さを用いていない。クマールは2つの究極に深刻な違反をどう比較するかの説明をしなければならない。

・以上より、クマールのプロジェクトは、テュリエルのプロジェクトより優れているとはいえない。

 

 

※③の方法論的なところはさっぱり知らないことなので、興味があると同時に大変そうだなあと。分析哲学史とかをやればわかるのかしら?