Duncan Pritchard (2018) *What Is This Thing Called Knowledge*〔5th ed. Routledge〕  第5章 rationality 練習問題

タイトルの通りです。

章末の練習問題に答えてみますので、もし間違い等ありましたら是非教えてください(おそらく多くあると思います…)。

また、訳語や文法に不適切なものがあるかと思いますので(特に訳語)、そちらも適切な訳語がありましたら教えて頂ければ幸いです。

 

1 認識的合理性epistemic rationalityとは何か?自身の言葉で記述してみて、下記にそれぞれ具体例を与えよ

・認識的に合理的な信念

・認識的に合理的ではないが、いくつかの点で合理的ともっともらしく考えられる信念

・認識的あるいはその他のいかなる意味でも合理的ではない信念

自身の具体例を十分に説明し、またそれらの例が、妥当なrelevant記述に適合する理由を説明せよ

 

回答:認識的合理性とは、特に認識論に関連した、合理性の一種である。この合理性に着目するのは、合理的な信念と正当化された信念との間に強い繋がりがあると思われるからである。そして、この合理性は、真なる信念に対して特に向けられるものである。端的にいうと、真なる信念を正当化するための判断が認識的合理性である。

・認識的に合理的な信念:煙草の空箱を見て、煙草を吸うためにはコンビニに買いに行く必要があるという信念

解説:「煙草を吸うためにはコンビニに買いに行く必要がある」という信念は真である。これを正当化する判断は正常に作用している。

・認識的に合理的ではないが、いくつかの点で合理的ともっともらしく考えられる信念:雨が降っていて外に出るのが面倒くさいので、煙草を吸うためにコンビニに行く必要はないという信念

解説:「雨が降っていて面倒くさいからコンビニに行く必要はない」という信念はたしかに真であり、そこには一種の合理性がある。しかし、煙草を吸うという目的のためにコンビニに行く必要があるので、これは認識的合理性がない信念である。

・認識的あるいはその他のいかなる意味でも合理的ではない信念:煙草を買ったことのない人が、煙草を吸うためには本屋に行く必要があるという信念

解説:煙草を吸うために本屋に行くことは、その人にとっては真なる信念である。しかし、何もそれを正当化する判断は存在していない。

 

 

2 認識的合理性を、真なる信念の数を最大化するmaximiseことを要求するものとして、我われが簡単に理解しないのはなぜか?

 

回答:真なる信念の数を手っ取り早く増やす方法には、例えば、電話帳を見るというようなことがある。しかし、電話帳をみて得たようなつまらない真なる信念を、知識とみなることには誰も賛成しないであろう。また、真なる信念をただ増やすことは、多くの偽の信念を得ることにつながりうる*1。したがって、真なる信念を最大化することは知識につながるわけではなく、認識的合理性はそれを要求することはない。

 

3 認識的合理性を、偽なる信念の数を最小化するminimiseことを要求するものとして、我われが簡単に理解しないのはなぜか?

 

回答:真実を得ること目標であることが意味するのは、真なる信念を増やすことよりも、偽なる信念を減らすことにある。しかし、これは何も信じないことが最善となってしまうため、認識的に合理的であるような振る舞いとは言えないであろう。

 

4 多くの真なる信念がもっぱらつまらないものtrivialであるという事実が、認識的合理性にとって問題をもたらすと考えられるのはなぜか、自分の言葉で説明せよ。この問題に対してどのように返答するべきか?

 

回答:つまらない真なる信念を形成するような行為者が一見すると認識的に合理的であるように見える点である。これでは、つまらなくないような真なる信念を形成する行為者との区別がつかない。そうなると、認識的合理性という概念自体が不要となってしまう。

返答には2種類ある。1つ目は、その問題を受け入れて、不合理的な信念などないとする素朴な認識観に立つような返答である。2つ目は、その問題は実在しないとするものである。この返答は、問題となるような人は認識的に合理的でないとするものである。

 

5 認識的規範epistemic normとは何か?ありえる認識的規範の、自身で考えた具体例を挙げよ

 

回答:

 

6 認識的合理性の概念conceptionを当為的deonticと呼ぶことにどんな意味があるか?ある意味で、認識的合理性の当為的概念は、認識的内在主義の一形態か?自身の答えを説明する具体例を挙げよ。

 

回答:当為的な認識的合理性は、以下の性質をもつ。責任をもって自身の信念を形成したときに限り、その人は認識的に合理的となる。非難すべきでないときに限り、ある人は不正なwrong認識的規範を使って信念を形成できる。一方で、非当為的な認識的合理性は、正しいright認識的規範を採用することを要求する。ここからわかるように、認識的合理性を当為的とすることで責任/非難の導入ができ、不正な認識的規範を用いた人の信念形成を認めることができる。

認識的内在主義は、認識的立場 epistemic standingと行為者が責任を負っているものとの間に近い繋がりを描く。責任という概念を導入していることから分かる通り、認識的合理性の当為的概念は、認識的内在主義の一形態である。

 

具体例:

 

7 認識的合理的な方法で自身の信念を形成することは、知識を有するために重要か?なぜ、それが重要であると考えることは、疑わしいと思われているのか?正当化と認識的合理性は同じものだと、あたなは考えるか?認識的合理性の当為的概念と非当為的概念の間の違いを暗に念頭に置いて、できる限り、これらの疑問に答えてみよ。

 

回答:

 

 

力尽きました。また今度挑戦して考えてみます…。

*1:2つ目の理由についてはよくわからないが、そのような記載があったので