知を愛すること(philosophia)が出来ていない話

恋人がふと、自分はレヴィナスの思想に感動したんだ、と話してくれた。
理由としては、いつかの大学の授業で少し聞いただけであるが、そのときに自分が求めていた(あるいは理想的な)思想だったらしい。
とても素敵で、かつ羨ましい経験だと思った。

「哲学」とは、英語でphilosophyという。古代ギリシア語ではphilosophiaという。
この言葉の語義を紐解くと、”知を愛する”、”愛知”、という意味である。これは、哲学関連の入門書でほぼ必ず言及されることであり、私にとってもある意味で当たり前の知識であった。
私は哲学科の人間ではないが、人よりは哲学が好きだと自負しており、人よりはそれについて勉強しているつもりである。

しかし、私は、ある思想に感動したという経験がない。
”知を愛する”営みをしているはずなのに、未だにそれを”愛する”きっかけが持てていないのである。
これは、哲学を学ぶ人間としては一大事である。同時に次の問いが生まれる。

「私は本当に知を愛することができているのだろうか?」

これが問いとして適切なものであるかは分からない。
愛することができているかどうかを評価するのは、主観的なことであり自分次第でどうとでも解決できるかもしれない。あるいは、きっかけがないからといって、それを愛していないことにはならないのでは、とも言えるだろう。逆に、きっかけがあっても知を愛しているとは言えないかもしれない。レヴィナスの思想に感動しただけであって、それ以上でもそれ以下でもないという。

ただ、どういう風に言われようとも、私がその経験がないことを重要視していることには変わりない。知を愛するきっかけもないのに哲学をやっているというのは、「私は本当に知を愛することができているのだろうか?」と問うには十分であるように思える。